書楼弔堂 炎昼/京極夏彦
まさかこんなにはまるとは思いませんでした。
前回(書楼弔堂)を読んですぐに2冊目をアマゾンで買い(本屋さんに行く時間がなかった)1日で読んでしまった。
いろいろ思うことはあるのですが、やっぱり本は一期一会で、必要なことが必要な時に必要な言葉をくれるのだなあと再確認しました。
最期の章、いろんな意味で涙が止まらなくて会社の昼休みに読み切ったんですが、耐えきれず泣いてしまいました。
生きるとはなにか、学ぶこととはなにか、死とはなにか。私に必要だった言葉を与えてくれました。
ほんとうにいろいろ思うこと、今の状況と文章が重なってしまってだめでした。
私は普段「死」というものをあまり考えません。
答えがわからぬから。
身近な人間がなくなりましたが、涙はでませんでした。
実感がないから。
死んだらどうなるだとか、死というものに漠然としたものすらなくただただ喪失感だけがこころに残っていました。否、喪失感すらなかったかもしれません。実感がないんですから。どこかにいるのではないかと面影を探しているのです。この小説を読んで、ようやく自分の想いのよりどころができたかもしれない…と考えると読んでよかった、出会えてよかったと心の底から思います。
考えは変わるものですが、自分の中に答えがなくもんもんとしていた時に、腑に落ちる考えと出会う衝撃は、何度味わっても慣れるものではなく、そして出会えた瞬間になぜか涙がでるのです。
たとえ今後考えや答えが変わったとしても、「いま」この瞬間に考えたこと、考えて出した答えは決してなくならないし、それを基盤として新しい考えになると思うのです。考えが変化しないということは、おおよそ進むことをやめたと同義語であると思います。ましてや24歳の小娘の考えが変わらないことなどそれこそ「死」同然です。
それを踏まえて、ここでこの文章にふれることができて本当に良かった。そう思うのです。まるで宗教ですが、本ってそういうものなのではないかなと思うことがあります。作者の想いが自分のなかにスッと入り込んで陶酔し、感化、影響される。私にとって、京極さんのこの小説がそういうものでした。
「はい。松岡様も仰せでしたが、それは方便でございます。人を生きやすくさせるための嘘。信仰は人を生き易くするためにあるのでございます。嘘だろうが間違いだろうが信じることで生き易くなるのであれば、それで良いのでございます。信心というのは生きている者のためにあるのです。死人のためにあるのではない」
「「死者を迷わせるのも、死者を地獄に落とすのも、それは生きている者次第なのでございます。六道のどの道に行くのかは残された者の心が決めるのです。命は滅んでも功罪は消えませぬ。生前に悪行を重ねた者は、死後も嫌われ疎ましがられましょう。それこそが地獄。生前に善行を積んだ者は、死後も慕われ尊ばれましょう。それこそが極楽往生。地獄極楽という方便は、そのために創られたのです。世に悪しき想いを遺した者はその罪業が滅却するまで地獄を抜けることが適いませぬ。良き想いを遺した者は、縁者にその想いが続く限りは天上に留まりましょう。ですから」忘れないことですと、ご主人は仰いました。
「亡くなった方の生前を。人は生きてこそでございます。尊重すべきは生。ならばその方の生きていたことを忘れずにいること――それこそが菩提を弔うということでございましょう。縦しんばそれが悪しき生であったとしても、覚えてさえいればやがて赦せる時も来ることでしょう。良き生ならば尚更でございます。況してそれが大切な方であったのならば」
もちろん死だけではなく、差別、男尊女卑、勉学、世の中すべての主張が、この本には詰まっていると思います。そしてそれらに共感しました。
私は自分のことをまるで考えがない人間だと長い間、思ってきました。
考えというか信念、そういったものがあまりない。と。
ですが、共感できた時点で自分のなかには考えがあったのだなあと確認できたのです。とてもうれしいことでした。そしてこのように確認できたのも、本があったからなのでしょう。時間の無駄だとか、意味がないだとか、そういったことを言われることが多い読書。私は読んできてよかったなと、胸を張って言えます。
もちろんほかの作品も読んでみたいと思います。 またひとり追いかけたい小説家が増えてしまった。幸せですね。