おきばしょ

記録です。

ベロニカは死ぬことにした/パウロ・コエーリョ

20歳の時に購入し久しく読んでいなかった「ベロニカは死ぬことにした」を本棚から引っ張り出し読みました。満たされている主人公が自殺するところから始まるこの物語は今の私にとても必要なものでした。

精神病棟に収容された様々な人間について、ベロニカが入院したことで起こる変化について、精神病について、人生について、生きることについて。

私は自分のことを不器用な人間であると自覚しています。自覚しているのに、自分に求めるもののハードルが高い。その差にいつもいつも愕然とし、病むというのが毎回の仕様です。この本は、少なくとも私には、どう生きるか、立ち止まっても許される、死にたくなったときに考える余地をもらえる、立ち止まって考えてもよいよという免罪符のようなそんな本になりました。

ベロニカに触発された幾人かの人間はこれから新しい人生を歩んでいくでしょう。
狂人はある意味、まともな(だと思い込んでいるあるいは、それすら考える必要のない)人には見えないものが見えるのだと、「普通」はないのだということを、この本から読み取ることができます。

一番つらいのは狂人だと認めたくなくてでも片足を突っ込んでいる人間なのかなあ。自分はまともであると強く思い込もうとする。でも違和感はぬぐえない。だからつらくなる。人生をただの時間の経過であると思い込む。

いわば「死」と同義。

何も疑わず生きることは本当に幸せなことだと思います。しかし一度でも「生」に対して立ち止まってしまった人間は、途端にからめとられてしまうでしょう。生きるとはどういうことかという、覗いてはいけない深淵に。

引用したい箇所がたくさんありすぎて書き込めないけれど今の自分に必要な箇所を何点か。

ベロニカは全てが嫌いだったが、主に自分の今までの生き方が大嫌いだった。自分の中の、面白く、異常で、好奇心旺盛で、勇敢で、毅然としている、何百というベロニカを一度も見つけ出そうとしなかったからだ。

 

まだ何も学んでないの?死が近づいてもまだ?隣の人の邪魔になるとか考えるのはやめなさい。もし気に入らなければ、彼らは文句を言えるんだもの。それでもし文句を言う勇気がなければ、それはその人たちの問題よ。

 

自分がすぐ死ぬことは知っていたけれど、どうして怖がる必要があるのか?恐れは何の助けにもならない。致命的な心臓発作も防げやしない。一番大切なのは、自分に残された日々や時間を楽しむことだ。今までやったこともないようなことをして。

 

ほかの長いこと忘れていた問題に苦しむ事になるわ。未払いの請求書、近所の人たちとのトラブル、私を理解できない人たちの皮肉っぽい目、孤独、私を咎める子供たちとか。でもその全てが人生の一部だと思うの。それに、そんな小さな問題に対処するために支払う代償はそれが自分のものであることを認めない代償よりも、ずっと小さなものなの。

 

私はこれまで私が経験したことを全て体験するために、この世界に生まれてきたの。

 

 

未来の自分へ。
いつかまた死にたくなったとき、人生に対して答えのない問いを問いかけているとき(常に)この記事を読み直してください。


本や映画について、そのほか人生で起こることのすべてについて必要であるから起こるのだと、常々思っているのですが、顕著にわかりやすく、瞬間にこれが必要だとわかるのは(もちろん後々わかるものも多数ありますが)、本や映画であると思います。

話は飛びますが、いつからか本を正しく読まなくてはならないと思い込んでいました。
それは学校の授業だったり、読解問題に(小説なのに!)正解があるだとか、自分の選択に自信がないなどそういうのが原因だと思います。
正解と同じにできない自分が恥ずかしくて第三者の目にとまるような場所に感想や持論、自分の経験と合わせて何を考えたかというようなことを書くのを恐れていました。

このことが間違えていると気が付くまで、4年もかかってしまいましたが、積極的に記録として書いていこうと思っています。これはただの独り言です。