書楼弔堂 破暁/京極夏彦
こんなにずっぽりはまったのはお久しぶりな本が最近山ほど出てきます。
ずっぽりというのは、寝食忘れて没頭する読書の仕方。トイレにもお風呂にも持ち込んで挙句の果てには会社の帰り歩きながら読んでいました。まるで小学生に戻った気分です。母親に言わせると、子供のころも今も”ずっぽり”はまった本の読みかたの姿勢が変わらないからこどもにもどったみたい、だそうです。
以前読んでいたんですけどね…。
1章で終わらせていました。多分楽しむ知識がなかったんだろうなと。いろいろな知識が得られるこの小説は小説の楽しさというものを再認識させてくれました。
なんども泣きそうになってしまって大変でしたが、私は弔堂の主のように理論的に、自分の考えを持つ人間になりたいなあと再認識できました。主は、枝垂れ柳のような人間だなあと。自分の考えを柔軟に持つ人間は強いと思います。
以下引用
「逃げぬことを美徳とするは、生きとし生けるものの中で人ぐらいのもの。努力すれば成る等と云うのは愚か者の戯言。為手みるまでは判らない等と云うのは痴れ者の譫言にございます。不可能なことはどう努力してみても不可能でございましょうし、可能か否かを見極めるのも速いに越したことはないのです。仮令、見極め損ねたとしても、逃げていれば安全ではありましょう。勝ち負け等と云う下賤な価値判断でしかものを捉えることができぬ愚劣なる者が、逃げることを蔑むのでございます。人には、向き不向きもございます。いけないと思うたら」逃げるのが良しと存じます。
「歩むことこそが人生でございます。ならば今いる場所は、常に出発点と心得ます。そして止まったところこそが終着点でございましょう」
「人間が、先程のかきかけの書物と同じです。未完なのですよ、高遠様。未完で良いのです。本は書き終われば、或いは読み終われば完です。しかし、生きていると云うのは、ずっと未完と云うこと」
生きることとは紡ぐことで、この世の中の半分は虚でありその不安定さのなかで私たちは暮らしているということを、弔堂の主のように穏やかで自分を持っているキャラクターにセリフとして言わせることで説得力が増すんですね。
人生は未完です。
いつだって忘れがちですが、自分の人生は自分のためにあって、命が続く限り「今」が「此処」だし、「今」が「出発点」なんですよね。人間いつだって変わろうと思えば多少血の吐く努力は必要でしょうが、変わることも生まれ変わることもできるんだと思います。変わろう、やろう、としないだけで。そういう大切なことを教えてくれる良き本に出会えたと思います。
明日から四月。
いろいろ新しい季節ですが、丁寧に一日を歩もうと思います。
焦らず、だけど考えることはやめずに。
素敵な本と素敵な映画に出会えますように。